6日目 5月5日(木曜日) 埼玉滞在

6日目 5月5日(木曜日) 埼玉滞在 吉祥寺・銀座訪問
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時々訪れる吉祥寺駅前のアーケード街





朝食を取りゆっくりペースの外出
9:38のバスに乗ってJR駅、京浜東北線で赤羽駅乗り換え
赤羽駅から埼京線に乗り新宿駅
ここで改札内にある成城石井を少しばかり覗いてみる(10:26)。
再度移動、中央線で吉祥寺まで
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中央線でひたすらに西へ

到着後、家人が行きつけのブティックに
その間、別行動でその辺りを散歩
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ブティックの近くに人が並ぶイタリア料理店があったので、ここに行こうと決めた。

ショッピングが終わった家人と共に、そちらのイタリア料理店へ行く。

BIODYNAMIE(ビオディナミ)
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パスタとサラダのセットランチ
無農薬野菜のペペロンチーノ【ランチ】 741円+59円(税)
明太子とヤリイカのパスタ【ランチ】 926円+74円(税)
合計:1,800円
BIODYNAMIE(ビオディナミ) 吉祥寺店 38席
東京都武蔵野市吉祥寺本町1-9-3 PALAZZOビル1階
TEL:0422-27-6652
11:00〜24:00
定休日:無休
FBは=>こちら

ランチ後にJR駅へ(右は吉祥寺で見かけた武蔵野市の消火栓 消防士デザイン)
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銀座に移動
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中央線で東京駅まで行き、山手線で有楽町へ

到着してまずはマツモトキヨシへ(12:28)
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その後、行きつけの鞄屋さんに立ち寄る。

5月5日は第十回銀座柳まつり開催中だった。
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パレードを眺めて、地下を通り三越へ

三越で買物
デパ地下でアイスを食べる。
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2階免税カウンターで還付措置を行う(三越の場合は手数料が差し引かれる)。
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三越新館から外に出ると、道の向こうのビルに見えるはtccというシンガポールから進出したカフェ
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歩いてJR有楽町駅に向かう。
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振り向いて、銀座4丁目交差点を眺める。
自分にとって銀座と言えば、この場所

歩いて駅の方へ

以前阪急百貨店があった場所に出来た新しい建物に行くも人が多くて断念
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道の向こうの熊本館で募金をして移動(14時前)
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駅への途中、もう一度鞄屋さんを見て、自由行動
自分は近くの三省堂で本や雑誌を見て購入

有楽町駅前(14:09)
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JRにて埼玉へ
14:12 山手線乗車
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14:17 京浜東北線に乗り換え(東京駅) 日中は快速になり、有楽町には停車しない
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親戚宅へ到着15時半前
訪れていた他のメンバーを入れて食事後に就寝


吉祥寺は家人が以前住んでいた街で、行くと色々と教えてもらうが、帰国の際は時間が取れれば足をのばす街のひとつ
自分が高井戸に住んでいた頃は、渋谷や新宿の方へよく行っていたが、逆の方向になる吉祥寺にはほぼ足を運んでいなかったのだから、行くと新鮮
ただ、今回は吉祥寺も銀座も駆け足で廻ったので、次回はいずれかでゆっくりと過ごしたいと思う。
posted by さとう at 07:00 | 旅行・名所訪問・ツアー体験記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

5日目 5月4日(水曜日) 大阪から東京へ 埼玉へ

5日目 5月4日(水曜日) 大阪観光の後、新幹線で東京へ 埼玉泊
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(東京へ移動中の新幹線車中から富士山がはっきりと眺められた。)





朝はいつもの様に5時に目が覚める。
大阪から埼玉へ移動の日、早朝から大阪最後の観光は真田幸村ゆかりの地を訪れる事に。

それらを訪れ、ホテルに戻り次第すぐにチェックアウトができる様に、あらかじめ荷物をまとめる。
その後、近くのコンビニで買ったパンを食べた。
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07:00過ぎにホテルの部屋を出て、まずは真田幸村終焉の地、安居神社を徒歩で目指す。

07:15あべのハルカス前を通過
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しゃちほこがビルの上にある派手なラブホテルなどを道の向こう(左手)に見つつ、北上

マンホールカバーが綺麗な絵柄を見つけて撮影
前日に行った大阪城 左:天王寺区 右:大阪市水道局
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激戦地、茶臼山の横の堀越神社に立ち寄る(7時半前後)。
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ここのお稲荷さんは茶臼山での激戦に勝利した徳川家康の保護を受けたらしい。
まずは本殿を参拝
何やら参拝マニアが和服に着替えている横をお稲荷さんを見て、移動
堀越神社
第33代推古天皇の御代、時の摂政聖徳太子が、太子の叔父君に当たらせられる第32代崇峻天皇の徳を偲んで、風光明媚にして長松直々たる茶臼山の地をえらばれ、四天王寺建立と同時に当社を創建
古くより明治の中期まで、境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、堀越という名が付けられたと言われている。
この地は、有名な慶長・元和の大阪冬の陣、夏の陣の古戦場
古くから大阪では「堀越さんは一生に一度の願いを聞いてくださる神さん」との言い伝え、男の四十二才の厄年には、東向きの神社にお参りすると厄除けになると言われている。(オフィシャルサイトより)
堀越神社のウェブサイトは=>こちら

天王寺公園入口前のコンビニでトイレに行き、お茶を買う。
時間がないので、休憩も取らずに、安居神社を目指す。

一心寺前で位置を確認し、横断歩道を渡りる(07:45過ぎ)。
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一心寺のウェブサイトは=>こちら

真田幸村終焉の地、安居神社へ到着したのは07:50前
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一心寺がある方面の入口からは、テニスコート横の小道を通り境内へ
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鳥居を入って正面が社務所窓口
鳥居の右横奥には、”さなだ松”と呼ばれる、真田幸村が討ち取られる前にその身を休めたという松の木(現在の松は2代目)
その奥が本殿
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早速真田幸村像とご対面、終焉の地で登る朝日に包まれた神社本殿を眺める。
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本殿でお祈りを済ませ、神社の中を散策
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西側の階段を降りてみて、変わった形の鳥居を見る。
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神社内に戻り、御朱印は可能かをたずねると窓口を開けてもらえた。
御朱印をもらい、井戸水(そこの水を飲むと癇癪が収まるらしいが、現在は井戸の水は枯れてしまったそう)の場所を聞き、トイレを借りて移動

訪問翌日の5月5日は”幸村まつり”の日だった。
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安居神社はオフィシャルサイトはないようだが=>こちらのじゃらんのページにて確認可能

神社を出た後、大阪の陣の屏風絵にも描かれている四天王寺の石鳥居を見に行くべく、東へ向かう。
四天王寺までの道沿いは、お寺の多い地区らしい風景が続く。

あべのハルカスを右手に見ながら横断歩道を渡ると、鳥居が見えてきた(08:26−27)。
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08:30前に鳥居地点に到着
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石鳥居   重要文化財
扁額の文字は、「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書かれてあり、釈迦が説法を説くところ、ここが極楽の東門の中心であるという意味
額は箕(み)の形をしており<チリトリ>のように全ての願いをすくいとって漏らさない阿彌陀如来の本願を現している。
元々木造で1294年に現在の石造となる。
元来鳥居は聖地結界の四門として古来インドより建てられたもので神社に限ったものではない。
黒田長政の書かせた屏風絵で真田幸村の奮闘する姿の付近には、この石鳥居がある。
(四天王寺ウェブサイトより)

平成9年から10年にかけての修理については=>こちら(公益財団法人 文化財建造物保存技術協会 建造物修理アーカイブ)をご参考に

石鳥居から西大門の方へ(08:34)
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西大門(さいだいもん) 通称 極楽門
創建は推古天皇元年(593年)、昭和37年(1962年)に松下幸之助の寄進により再建
四面の壁には壁画があり、東西には左右に山越(やまごえ)阿弥陀如来、釈迦如来と十大弟子が、
西面には左右に観音菩薩、勢至菩薩がそれぞれ描かれてある。
門の柱には釈迦の教えを意味する転法輪が付いている。
石鳥居から西大門にかけての一帯は、古来から浄土信仰の中心地で、西大門は極楽門とも称され、
石鳥居と同じく人々の信仰を集めている。
(門前の説明板より)

四天王寺では鳥居を見た後は、まず本堂(中心伽藍)に向かう。
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西重門にて、入場料1人300円支払う。

五重塔が耐震工事の為に見学できないのは残念
7年間かけて行われている耐震工事との事で、五重塔自体の完成はこの7月と聞く。
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五重塔
聖徳太子創建の時、六道利救の悲願を込めて、塔の礎石心柱の中に仏舎利六粒と自らの髻髪(きっぱつ)六毛を納められたので、この塔を「六道利救の塔」という。
塔の入口は南北にあるが、通常開放しているのは北側のみ
南正面に釈迦三尊の壁画と四天王の木像をお祀り
中心壁と外壁の各面に描かれた仏画は山下摩起の筆によるもの
(四天王寺のウェブサイトより)
金堂では、中心に観音菩薩を4体の天王が護る形(08:40)
僧侶の祈祷の声が堂内に厳かにも心地よく響く中、釈迦の生涯の壁絵を時計回りに見て歩く。
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金堂
聖徳太子のご本地仏である救世観音をお祀り、四方を四天王が守護
毎日11時より舎利出しの法儀が厳修
内壁には中村岳陵の仏伝図が描かれている。
(四天王寺のウェブサイトより)
奥の左手、講堂を見学
中は2体の観音菩薩?を取り囲む様に、玄奘の天竺までの苦闘の旅と修行、そして帰国後の姿が描かれている。
入口近くのみ、聖徳太子の絵柄
絵柄は金堂同様に、なかなか見がいのある一連の物語
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講堂
経典を講じたり法を説いたりする七堂伽藍の一つのお堂
講堂内陣は中央を境に、東を冬堂、西を夏堂と呼ぶ。
冬堂には現世の人々の悩みや、苦しみを救う十一面観世音菩薩、夏堂には来世極楽に人々を導く丈六阿彌陀如来をお祀り
つまり、現世と来世の二世に亘り、人々を安楽へ導き給うようにとの願いが講堂には込められている。
内壁には、郷倉千靭による仏教東漸が描かれている。
(四天王寺のウェブサイトより)
講堂から金堂、五重塔、中門(仁王門 端だけが見える)方向を眺める(09:12)。
こちらは南の天王寺駅(あべのハルカスや宿泊した天王寺都ホテル)方向
中心伽藍を取り囲むように回廊があるのが写真からも確認できる。
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中心伽藍を出て、反時計回りに北側へ行く。

北鐘堂(黄鐘楼 おうしょうろう)
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奥の石舞台(重要文化財)・六時礼讃堂見学(09:18)
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石舞台 重要文化財
亀の池の上に架かっている石橋に組まれた舞台
毎年4月22日に聖徳太子を偲んで行われる聖霊会舞楽大法要の際には、古来よりの作法にのっとり舞台上で舞楽が舞われる。
(四天王寺のウェブサイトより)
六時礼讃堂 重要文化財
境内中央に位置する雄大なお堂で、名の由来は昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから
薬師如来・四天王等をお祀りしており、回向(供養)、納骨等を行う当寺の中心道場
入口には賓頭盧尊者像やおもかる地蔵が祀られている。
修正会・聖霊会などの大法要はこのお堂にて執り行われる。
(四天王寺のウェブサイトより)

再度石鳥居を見学し、近くの引導石を見下ろす。
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弘法大師像(09:28)
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石鳥居に戻る途中、右手に見えたのは、親鸞を顕彰し、建立された見真堂
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本尊を阿彌陀如来とし、向かって右に聖徳太子像、左に六字名号の掛け軸
露座の親鸞聖人(見真大師)の御像は、堂横


御朱印をもらう(09:35)。
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色々ある中、一番スタンダードのものを希望

ぐるりと南から中門の仁王像を見る(09:38)。
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中門(ちゅうもん 仁王門)
昭和38年10月15日落慶の中門は飛鳥時代創建当初の様式を再現
文化9年(1812年)再建の中門は、昭和9年9月21日の室戸台風により倒壊
昭和15年に5間3戸入母屋本瓦銅葺の重層の門が再建
昭和20年3月15日の戦火で焼失
現存の門は、8回目の中門
元来、中門は中心伽藍の南端に位置し、脇の間に伽藍の守護神である金剛力士(仁王像)を祀っている。
その事から、仁王門と呼ばれ、ここが中心伽藍の本来の正面
向かって右手の赤色の像は「阿像」那羅延(ならえん)金剛力士、左の青色の像は「吽像」密迹(みっしゃく)金剛力士像
阿とは物事の最初、吽とは最後を表すとされ、阿吽の呼吸で山門を守護
(四天王寺の説明板より)
唐門(からもん) 南大門の東横(09:40)
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南鐘堂(鯨鐘楼 げいしょうろう)(09:41)
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太子殿に行く(09:45)
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太子殿
聖徳太子をお祀りしているお堂(天王寺のご廟)で、正式には「聖霊院(しょうりょういん)」といいます。
太子信仰の中心となっています。
前殿には十六歳像・太子二歳像・四天王が奥殿には太子四十九歳像(1月22日のみ公開の秘仏)が祀られています。
毎年2月22日の「太子二歳まいり」ではお太子様の知恵にあやかるべく、2歳前後のお子たちを連れたご家族で賑わいます。
奥殿基壇内(地下)にはご信者さんにより永代奉安された太子観音像[極楽・水子・施薬・知恵・厄除・子育の六観音]が安置されております。
他に毎月22日の太子忌法要、 六観音法要、そして毎年10月22日経供養には信者さんより奉納された写経も併せて供養されます。
その奥の八角形の屋根、太子奥殿
さらに奥左側、経堂
創建年代は未詳
現在の経堂は『勝鬘経』『維摩経』『法華経』の三経、その注釈である 「三経義疏」をはじめ高麗大蔵経・昭和荘厳経等が納められている。
10月22日には、経堂の扉が開けられ、経供養が執り行なわれる。
経堂の右側、絵堂
杉本健吉画伯により「聖徳太子御絵伝障壁画」が奉納され、昭和58年に完成
絵堂は、 聖徳太子の一生の事蹟が描かれた絵伝を礼拝の対象として安置する建物で、 絵伝は主として太子の奇跡的な伝説を中心に制作されたもの
毎月22日に開扉される。
(四天王寺のウェブサイトより)

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普賢菩薩
文殊菩薩と並んで、釈迦如来の脇侍として、慈悲をもってあまねく一切衆生を救う菩薩
「法華経」を信仰するものの前に六牙の白象に乗って出現し、守護すると同経に説かれてある。
また同経は女人成仏を説く経典として広く知られており、平安時代以降女性の讃仰をあつめた。
さらに普賢菩薩には特に延命の徳があるとされている。
ご真言 おん・さまや・さたばん
(四天王寺の説明板より)
宝物館は時間がなかったので、見学できず(入場料 個人一般500円)
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その先の苔むす亀井不動尊へ(09:49)
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そこでUターンし、南大門から出る。
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四天王寺の創建の由来
聖徳太子が推古天皇元年(593年)摂政皇太子として最初に建立した寺
用明天皇崩御の後、皇位の継承を巡って蘇我馬子等と廃仏派の物部守屋等が争った時、
当時14歳の聖徳太子(厩戸豊聰耳皇子うまやどのよよとみみのみこ)が、馬子等の崇仏派の為に、仏法守護神である四天王に戦勝を祈願
戦いは崇仏派の勝利
聖徳太子は20歳の時に摂政皇太子となり荒陵(あらはか)の地に日本最初の官寺を建立し四天王を祀り、四箇院(しかいん)の制度に則って、
各種の境事業の施設を設けた。
四箇院(しかいん)とは、
敬田(きょうでん)、悲田(ひでん)、施薬(せやく)、療病(りょうびょう)の4つの施設の事
敬田院・・・・・・仏の知恵を悟るところ
悲田院・・・・・・老人や故事を救済する施設
施薬、療病の2院・・・・・・現代の病院にあたる
これらの福祉施設は日本で最初のもの
四天王字伽藍は、日本でもっとも古い様式に配置され、一般に四天王寺式と呼ばれている。
伽藍の中枢部は、中門(仁王門)を入ると五重塔があり、金堂、講堂の順に南面に面して一直線上に建てられている。
中門と講堂を結んで左右に回廊があり、塔はもと仏(ブッダ)の舎利をおさめたものであって仏(ほとけ)をあらわし、金堂は法を、講堂は僧をあらわして、
そこに仏法僧の三法が象徴されている。
(石鳥居近くの説明板より)
四天王寺のウェブサイトは=>こちら
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あべのハルカスを目印にホテルへの帰路を急ぐ。

天王寺駅をぐるりと右からまわり、ホテルへ戻れたのは10:15前

部屋に戻り、出発の準備
手早く荷物の最終のまとめを済ませ、ホテルをチェックアウト


ホテルの地下階につながる、乗り換えのない地下鉄御堂筋線でJR新大阪駅へ(10:47乗車)
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JR新大阪駅で、シンガポールのお土産をほぼすべて購入(11:40)
そして駅弁を購入して新幹線乗り場に
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12:16新大阪駅発新幹線ひかり520号がプラットフォームに入ってくる。
16号編成
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我々は4号者の左手で、晴れれば富士山が見える側
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東京には15:10着の予定

座席は進行方向に向かって、2列・3列で、東海道新幹線は座席がいまひとつ
車内販売があるのが嬉しい。
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晴れればいいな、と思い、まずは駅弁を食べる。
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東京駅までの間にする事を考えている内に睡魔に襲われ、撃沈

幸いに目が覚めて、綺麗な富士山を望む事ができた。
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定刻通りに東京駅に到着し、在来線へ乗り換え(15:16)
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京浜東北線で北上

15:55タクシーに乗り親戚宅へ
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埼玉県川口の親戚宅に到着(16:15)
荷物を解き、少し休んで、近くの焼肉屋さんで早めの夕食

夕食後はスーパーへ買い出しをし、免税措置をしてもらった。

帰宅後就寝


午前中のホテル周辺の観光は、時間に追われながらまわったにも関わらず、意外と充実して色々と見る事ができた。
もう少し時間が欲しかったというのが正直なところながら、予定していた範囲で観光できたのは嬉しい。
これは宿泊したホテルがそれらの目的地に近かったからとも思える。
慣れぬ土地では、泊るホテルの場所は大事だと改めて思える。
新大阪駅にも、ホテルの地下階からすぐの地下鉄御堂筋線を利用したおかげて、早く到着する事ができた。
シンガポールへのお土産も新大阪駅で大阪を感じさせるお土産を選ぶ事ができた。
普段東京で買うお土産が主なので、今回は趣向が変わってよかった。

イーオンへの買い物はパスポート(日本への入国印あり)を持参して、免税措置を受けられた。
気をつける事は免税手続きをするカウンターのオープン時間をあらかじめ聞いておく事
我々は買い物の前にカウンターで確認の上、買い物を行った。
以前と比べてイーオンのスタッフも数段に手際よくなっていて、ここにも外国人観光客の増加の影響が見受けられる。

移動時にはっきりと見えた富士山、富士山を見ると嬉しくなるのはやはり日本人だからか?
posted by さとう at 09:26 | 旅行・名所訪問・ツアー体験記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

4日目 5月3日(火曜日) 大阪観光 大阪城・住吉大社・通天閣

4日目 5月3日(火曜日) 大阪観光 大阪城・住吉大社・通天閣
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朝食はホテル横にあったコンビニで買ったパン等を食べて済ます(7時過ぎ)。
日本のコンビニのパンが美味しくて、どう考えても食べ過ぎた。
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この日の観光はまずは大阪城
今回の大阪訪問のメインイベントのひとつは大阪城観光、どれくらい時間がかかるかわからなかった為、中日のこの日にスケジュールを持ってきた。

JR天王寺駅から電車に乗り(8時半過ぎ)、大阪城公園駅に向かう。
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9時前に、大阪公園駅到着
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司馬遼太郎の文章が駅舎内壁の上部に
司馬遼太郎と大阪については=>こちら のPDFがコンパクトにまとめてあり、お勧め
JRおでかけネット(大阪城公園)=>こちら

電車を降りて、地図で位置を確認
お城の方へ歩いて行く途中、リバークルーズ(大阪水上バス)の港に立ち寄る。
ちょうどカウンターが開いたところで、取り敢えずスケジュールだけを見ておいた。
大阪水上バス=>こちら
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大阪城ホール前を通過し、それから約10分ほど歩き 青屋門(あおやもん)
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大阪城二の丸の北に位置する出入口、青屋門はその桝形(ますがた)の内側に建つ。
創建は徳川幕府による大阪城再築工事が開始された元和6年(1620年)頃と考えられる。
明治維新の大火で被災し、その後陸軍によって改築、昭和20年(1945年)の空襲で大破
昭和44年(1969年)に大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門
上部に櫓(やぐら)を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代は上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。
桝形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画の事で、青屋口の桝形は二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出桝形(でますがた)だった。
さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。
この橋は押し出し引き入れの自在のいわゆる算盤橋(そろばんばし)で、非常時以外は引き入れたままになっていた。
「青屋」の名については、戦国時代この地にあった大阪(石山)本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。
〜門にあるパネル(歴史街道)より〜
門を通り過ぎると大阪城の天守閣が見えて来た。
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左に曲がって、さらに10分ほど歩いて、石山本願寺の碑
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石山本願寺と大阪
明応5年(1496年)、本願寺第8代宗主蓮如は摂津国東成郡生玉庄内の大阪に坊舎を築いた。
「大阪」という地名が歴史上初めてあらわれるのは、明応7年(1948年)11月21日付の蓮如の「御文(御文書)」とされている。
この坊舎を中心にして周囲に土居と堀を巡らせた「六町の構」と言われた寺内町が形成された。
天文元年(1532年)に山科本願寺が炎上すると、本願寺はこの地に移され、本願寺教団の中心となった。
石山本願寺の寺内町では、御御影堂・阿弥陀堂を中心に、六町二千軒におよぶ町屋が立ち並び、多くの職人や商人が生活
当時の堺とならぶ豊かな都市生活がくりひろげられていた。
やがて織田信長と対立し、元亀元年(1570年)から11年間におよぶ石山合戦の後、大阪から鷺森、貝塚、天満を経て、天正19年(1591年)に京都へ移転
秀吉は石山本願寺と寺内町の跡に大阪城を建築
石山本願寺の遺構はいまだ確認されていないが、大阪城公園の辺りがその遺構と推定されている。
〜大阪市教育委員会のパネルより〜
本願寺について興味ある方は、西本願寺(本願寺派)は=>こちら 東本願寺(真宗大谷派)は=>こちら これらをご参考に
石山合戦で織田信長と10年以上にわたり戦った11世の顕如の長男の教如が本願寺東隣の土地を徳川家康から与えられ東本願寺を開いた(1602年)。浄土真宗はここで、元来の本願寺を継いだ弟の准如と対立


豊國神社(ほうこくじんじゃ)に到着(9時半過ぎ)
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裏から入ったが、まずは本殿にお参り
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御朱印をもらう。
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豊臣秀吉像
出世街道を駆け上がり、老いて色々と間違いをしてしまった豊臣秀吉はあまりにも人間的な為、今も人から好かれるのかも知れないと、この旅行記を書きながら思う。
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豊國神社のオフィシャルサイトは=>こちら

神社を出て、少し歩き、やっとお城近くにたどり着く。
まずはアイスクリームを食べて、休息を取った(9:50)。
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約10分の休息の後、再び天守閣を目指す。

桜門をくぐり抜けたのは10時過ぎ

桜門(重要文化財)
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本丸の正門。徳川幕府による大阪城再築工事が行われていた寛永3年(1626年)に創建も、慶応4年(明治元年1868年)の明治維新の大火で焼失。
明治20年(1887年)に陸軍が再建したものが現在のもの。
左右の堀も桜門再建に合わせて新築されたが戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969年)に復元。
桜門の名称は豊臣秀吉が築いた大阪城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられる。
ただし、豊臣時代の大阪城は、徳川幕府再建の今の大阪城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方角も違っていた。
なお、門の両脇に見える巨石は龍虎石(りゅうこいし)と呼ばれ、江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿、左に虎の姿がそれぞれ現れると言われた。
〜門にあるパネル(歴史街道)より〜

門の裏手には、銀明水井戸の井筒(ぎんめいすいいどのいづつ)


桜門桝形の巨石
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桜門の内側には、本丸の正面入口を守る為、石垣で四角く囲まれた「桝形」とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓(たもんやぐら)が建てられた。
この桝形は、徳川幕府による大阪城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624年)、備前岡山藩主池田忠雄の担当によって築かれ、石材は備前産の花崗岩が用いられている。
正面の石は蛸石とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メーター)、重量は約108トンと推定。
向かって左手の巨石は振袖石(ふりそでいし もしくは、袖石)とよばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メーター)で城内第3位。
なお、上部の多聞櫓は、明治維新の大火で焼失。
大阪城天守閣までもう少し!
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旧大阪市立博物館
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当建物は昭和天皇の即位を記念して、昭和6年に市民の寄付により当時のお金にして150万円が集められ、大阪城天守閣の再建、大阪城公園の新設と合わせて第4師団司令部として建築された。
外観をヨーロッパ中世の古城に似せた堂々とした建築で、壁面上部の装飾や正面および四隅の隅塔などにその特徴がある、
戦後は大阪市警視庁として、その後大阪府警本部として使用。内部を改築し昭和35年から平成13年まで大阪市博物館。
〜大阪市経済戦略局の説明による〜

天守閣に登る入口は長蛇の列
列の最後尾に並ぶ。
楼閣も公開中で、双方に行く人は列に並ばずにチケット購入できるという話だったが、時間的な点で双方行くか決められずに、まずは天守閣のみ
15分〜20分ほど待って、チケット売り場へ(10時半前)
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料金所を入り、天守閣の建物に行く前

金明水井戸屋形(きんめいすいいどやかた) 重要文化財
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大阪城の小天守台(しょうてんしゅだい)にある井戸を金明水といい、それを覆う面積11.55平方メーター、高さ5.2メーターの建物を金明水井戸屋形という。
井戸は33メーター、井筒は1個の石をくりぬいたもので、外部の水長師は4枚の大石を組み合わせて敷き詰めている。
この井戸は徳川幕府による大阪城再築工事にともない寛永元年(1624年)に新たに掘られたものであること、さらに井戸屋形は同3年(1626年)に創建された当時のもの。
なお、江戸時代までこの井戸は黄金水(おうごんすい)と呼ばれ、本来の金明水(金水)は天守の東側、現在の配水池のあたりにあった。


まずは天守閣を上まで登り、そこから降りて行く事に
エレベーターで最上階へ
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天守閣到着(10:40前)
金ぴかのしゃちほこ
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歩いてきた広場の模様
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大阪城の天守閣の歴史
秀吉時代 天正13年(1585年)から慶弔20年(1615年) 31年
徳川時代 寛永3年(1626年)から寛文5年(1665年) 40年
現代の天守閣は、昭和6年(1931年)から
登録有形文化財 大阪城天守閣
現在の天守閣は昭和6年(1931年)、大阪市民多数の寄付金を元手とし、「大坂夏の陣図屏風」に描かれた豊臣時代の天守を参考に建築された。
鉄筋鉄骨コンクリート造りで、本丸から最上階の鯱までの高さは約54.8メートル。
古典建築を近代的な技術によって再現した、わが国の復興天守第1号である。
初代の天守は、豊臣秀吉が大阪築城を開始して3年目とある天正13年(1885)に完成したが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で城もろとも焼失。
二代目の天守は徳川幕府による再築工事の最中、寛永3年(1626)に現在の場所に築かれたが、寛文5年(1665)に落雷で焼失した。
以来大阪城は天守のない城郭として幕末に至る。
三代目となる現存の天守は、復興時から博物館施設として利用され、第2次大戦の空襲でも焼失をまぬがれた。
平成9年(1997)には復興以降初めての改修工事が完了し、同年、歴史的景観に寄与する近代建築物として国の登録有形文化財となった。
なお戦後の学術調査によって、豊臣時代の天守は現在地よりも東にあったことが判明しており、高さは約40メートル。配水池の地下付近から天守台石垣の一部が発見されている。
〜歴史街道より〜

鉄筋コンクリートの大阪城はエレベーターがあるのが、少し興ざめながらも、しょうがないかと思いつつ

天守閣に10分ほど滞在し、階段を下に降りる。
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ちょうど徳川家康に関し、展示
神君家康ー「東照宮縁起絵巻」でたどる生涯
平成28年3月19日(土)〜5月15日(日)
大阪城天守閣3・4階展示室
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真田丸のポスターで、大河ドラマでの盛り上がりを感じた。
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豊臣大阪城が落ちる黒田官兵衛が書かせたという屏風(レプリカ)の説明の展示に、お城が落ちるとはと思いをはせる。
真田幸村の闘う姿をお寺の鳥居前に確認(翌日行く事に)

約1時間ほど、展示物を見学してまわる。
もう少し時間をかけて見たかった気持ちもあったが、人が多いのと、次に行く場所なども考慮に入れて、移動をした。
8階 展望台 ミュージアムショップ
7階 展示室(豊臣秀吉の生涯)
6階 回廊
5階 展示室(大坂夏の陣屏風の世界)
4階 文化財展示室(豊臣秀吉とその時代)
3階 文化財展示室(豊臣秀吉とその時代) 黄金の茶室 図録販売書
2階 展示室(お城の情報コーナー) 事務室 学芸員室 会議室 🚻 
1階 エントランスホール ミュージアムショップ シアタールーム インフォメーション
天守閣を出て、列に並んでいる時にはゆっくり見られなかった金蔵の建物を眺める(12:20前)。

金蔵(きんぞう) 重要文化財
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江戸時代、幕府の金貨、銀貨を保管した建物で、幕府直営の金庫としての役割を果たした。
「かねぐら」「かなぐら」とも読む。
宝歴元年(1751年)、この場所から南に延びていた長屋状の建物を切断・改造して築造され、以来、北西側に以前からあった金蔵を「元御金蔵(もとごきんぞう)」、
この金蔵を「新御金蔵(しんごきんぞう)」と呼んだ。
高さは約5.8メーター、面積は93.11平方メーターで内部は大小2室からなり、手前の大きな部屋には通常の出納用、奥の小さな部屋には非常用の金銀を置いた。
構造は防災と防犯に特に工夫がこらされ、床下は全て石敷き、入口は二重の土戸と鉄格子戸の三重構造、小窓は土戸と鉄格子、床下の通気口にも鉄格子がはめられている。
なお元御金蔵は、明治25年(1892年)の配水池建築にともなって今の金蔵の東隣に移築され、さらに昭和4年(1929年)陸軍によって高槻工兵隊の敷地内に解体移築、のちに消失。
〜パネル(歴史街道)より〜


極楽橋の方へ淀君・秀頼の終焉の地を探して少し迷った。
石垣近くの祠(12時半)
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もう少し降りたところが終焉の地だと知り、山里丸へ
たどり着いて、碑で手を合わせた(12:40過ぎ)。
人生とはわからないものだと思えた。
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山里丸
天守から一段下ったこのあたり一帯を山里丸と呼ぶ。
豊臣時代には、山里の風情を保つ松林や、桜、藤などの木々が茂り、いくつもの茶室が建っていた。
豊臣秀吉や、その家族が茶会や花見を楽しむくつろぎの場所であった。
大坂夏の陣(1615年)で落城の際、淀殿、秀頼母子が自刃したのも山里丸と伝えられている。
徳川時代寛永元年(1924年)の再築後は構造も建物もすっかり変わり、石垣を取り囲む櫓のほか大阪城を守衛した山里加番(城役人)の建物が立ちならんでいた。
〜たてられてあったパネルより〜
極楽橋を渡る。
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極楽橋
山里丸と二の丸とを結ぶ橋である。
豊臣秀吉が天正11年(1583)に築造を開始した大阪城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にもかけ直された。
江戸時代には幅約8メートル(4間)の木造で、慶応4年(明治元年、1868)に起こった明治維新の大火によって焼け落ちたが、97年後となる昭和40年(1965)に再架橋された。
現在の極楽橋は長さ約54メートル、幅約5.4メートルで、橋脚(きょうきゃく)・主桁(しゅげた)を鉄筋コンクリート造としつつも、上部は歴史的景観に配慮し伝統的な擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)としている。
「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさす事から、戦国時代この地にあった浄土真宗本願寺派の本山、大阪(石山)本願寺以来の名称ではないかと考えられている。
〜歴史街道より〜


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天守閣で見た屏風絵には、この橋を渡って逃げ落ちる人たちの姿が生々しく表現されていた。

橋を渡り、左手の方へ行き、
大阪城御座船(=>こちら)という堀を舟で行くというものの乗り場を通り過ぎた(12:50)。
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こま犬
この一対の「こま犬」は中国・明(みん)の時代の文化遺産で、それぞれ高さ約3メートル、重さ約2.9トンある。
日中戦争の最中に日本へ運ばれ、当時陸軍第四師団司令部のあった大阪城内に置かれた。
戦後も長らく山里口出桝形(やまざとぐちでますがた)の東付近に置かれていたが、昭和59年(1984)、中国政府に寄り改めて大阪市に寄贈される事になり、現在の場所に移された。
以来この「こま犬」は、両国人民の友好関係を促進し、友誼を深める象徴となっている。
わきに建立された記念碑には、変わらぬ日中友好への願いをあらわした「中日友好 萬古長青」の文字が刻まれており、これは当時の宋之光中華人民共和国駐日本国特命全権大使の筆になる。
〜歴史街道より〜

京橋口
大阪城の西北の出入口。
北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられている事から、「京橋口」もしくは「京口」と呼ばれた。戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、桝形には大手口と同様に多聞櫓もあって、大阪の名所となっていたが、昭和20年(1945)の空襲によって全焼した。
〜歴史街道より〜
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京橋口桝形の巨石
京橋口桝形の内、京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が畳約33畳敷(54.17平方メートル)にもなる城内第2の巨石「肥後石」である。
築城の名手加藤肥後守清正が運んできたと伝えられてきたが、実際は徳川幕府による大阪城再築時に、この区域の石垣築城を担当した肥前岡山藩主池田忠雄によって運ばれた。
肥後石の左手が京橋口二番目石で、表面積が畳22畳敷(36.00平方メートル)の、城内第7位の巨石である。
〜歴史街道より〜


筋鉄門跡(すじがねもんあと)を通過(13:00)
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筋鉄門跡(すじがねもんあと)
元和6年(1620)に開始された徳川幕府による大阪城再建工事では、同年の第1期工事により二の丸の北外側に北外曲輪(きたのそとくるわ)(三の丸)が築かれた。
筋鉄門はその西の入口で、門扉は筋状の鉄板で補強されていた。
ここは鴫野(しぎの)方面への通路にあたる事から一般の通行が許され、特に鴫野の弁財天の縁日には多数の市民がここを通った。
門は明治維新後も残り、北外曲輪跡に設置された軍需工場(大阪砲兵工廠)の正門とされたが、現在は左右の石組だけが残る。
〜歴史街道より〜

大阪城 オフィシャルサイトは=>こちら



道を迷った挙句、スマートフォンで地図を確認しつつ、駅を探す。
ホテルで教えてもらったお好み焼き屋さんを目指してホテルに戻るべく、地下鉄天満橋駅へ(13:10)
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13:30に天王寺に到着

迷いつつ、やっとのことで見つけたお好み焼き屋さん”京ちゃばな
しかし、人気店の様で、予約でいっぱいだと言われ、断念(13:40)
〒545-0053 大阪市阿倍野区松崎町2-3-50 レガーレ阿倍野1F
06-6628-3911 店舗は=>こちら
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近くの人が群がるタコ焼き屋さんで、タコ焼きを立ち食い(13:50)
〒545-0052 大阪市阿倍野区阿倍野筋1-2-34
電話:06-6622-5307
営業時間平日11:00〜23:00/土11:00〜23:00/日・祝11:00〜22:30
定休日第3木曜日
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移動する前に少し休もうと、あべのハルカスに向かう。

あべのハルカス内6階のカフェでひと休み(14:10)
大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-43 あべのハルカス近鉄本店 タワー館 6F
電話:06-4703-3345
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路面電車、阪堺電車で住吉大社を目指す(15:15過ぎ)。
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路面電車を降りると、そこは住吉大社
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到着し(15:35過ぎ)、反橋(太鼓橋)を渡り(15:40過ぎ)、中へ入る。
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慶長年間に淀君が奉納したものであるといわれており、昔は、この橋の近くまで波が打ち寄せられていたそう
川端康成の小説『反橋』で「上るよりもおりる方がこはいものです」と書かれてある。
夜は21時までライトアップ、関西夜景100選

水手舎(てみずしゃ)
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ウサギの口から水が注がれているのは、神功皇后がお祭りされた日が卯歳(うのとし)、卯月(うづき)、卯日(うのひ)であることから、ウサギと深い結びつきを象徴したもの
角鳥居(かくとりい)
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四角柱の鳥居であるため、角鳥居 (かくとりい) とも呼ばれている。
このような四角柱の柱は古い様式で大変珍しく、各本殿と拝殿の間に建っている木造朱塗りの鳥居が原形
題額は陶製で、有栖川宮幟仁親王の筆

閉まるまで時間がなさそうなので、まずは入口の御朱印所へ
色々と御朱印所があるようだったが、ここだけにする。

その後、本殿を目指す。

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現存の本殿は全て1810年=文化7年に建築
第一本宮から第四本宮にL時に並ぶ4棟の本殿は「住吉造(すみよしづくり)」と呼ばれ、神社建築史上最古の様式の一つ
いずれも国宝建造物に指定されている(昭和28年11月14日 指定)。

建築様式については=>こちら

ご祭神
第一本宮:底筒男命 そこつつのおのみこと
第二本宮:中筒男命 なかつつのおのみこと
第三本宮:表筒男命 うわつつのおのみこと
第四本宮:神功皇后 じんぐうこうごう (息長足姫命 おきながたらしひめのみこと)

本殿については=>こちら

本殿ではちょうど結婚式が執り行われていた様(16時前)
神前結婚式もいいものだ、と見ていて思う。
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本殿の奥は左側は閉まる前で、入ろうとすると、スタッフの人の「時間内に戻ってこれないと、出られない」との言い方にムッとする。
戻って来れればいいんだろう?と言い、中に入る。
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中の方をさらりと見て、本殿の右奥のパワースポットへ
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ぜひともお参りしたいところ
良縁 えんむすび 夫婦円満
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授与所 お守りなどの売り場窓口 9:00〜16:30
巫女さんが頭にかぶっている飾りが珍しい。
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住吉退社は巫女とは呼ばずに「神楽女」 (かぐらめ)と呼ぶ。
住吉大社は伊勢の神宮や春日大社など古社とならび、伝統ある神楽を継承、その神楽舞に奉仕するのが神楽女
神楽を舞うことで神霊を神楽女に御招きする意義があるので、頭上には鏡を中心に、神木である「松」が掲げられ、神使の「白鷺」が飾りつけられている。
住吉大社よくある質問=>こちら より

まずは地図で大まかな位置関係を確認したい。
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小雨の中で、太鼓橋の赤色が映える。
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住吉大社オフィシャルサイトは=>こちら
歴史については=>こちら

石舞台などは見ずに去った。
名所などは=>こちら であらかじめチェックしておく事をお勧めする。



路面電車駅に向かう途上、橋のところから雨が降り出した。
駅前の軒先で雨宿りして、電車が来るのを待つ。

取り敢えず、最初に到着した電車に乗車(16:25)、通天閣を目指す。
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往路と同じ路線では通天閣方面にはいかない事を知る(16:44)。
阪堺電車の路線図は=>こちら
南海電気鉄道株式会社の100%子会社の阪堺電気軌道株式会社の会社概要(その歴史など)は=>こちら

歩いて通天閣に行く事に
天王寺動物園前の公園では何やら音楽イベントが行われている様だった。
歩いている途中、天王寺動物園過ぎたところで、土砂降りになってしばらく雨宿り

小降りになったところで、急いで移動
道路を右手に曲がり、直進

ジャンジャン横丁に入る。
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狭いアーケードの中にお店がひしめき合う。
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将棋や囲碁をやる人人人・・・・・・(17:09)。
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アーケードを抜けて、まっすぐに歩いて行くと、通天閣が見えて来た。
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通天閣の地下でまずは並び、チケット購入
エレベーターに乗り2階へ行く。
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そこを降りるとぐるりと1周の長い列、そこで40分の待ち時間
順路の向こうに見えるのは、展望台へのエレベーター

最初の写真撮影(17:40)
「綺麗に撮れタワ〜」と撮影ごとにポーズをとる元気なお姉さん
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1956年(昭和31年)の二代目通天閣の誕生に関わる資料(?)が何となく置かれていた。
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5階のビリケンさんでの写真撮影販売所(17:50前)
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2階をぐるりとまわって、やっとエレベーター乗り場にたどり着く。
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エレベーターに乗って5階の展望台へ

展望台に到着、眺めを見下ろす。

そして、メインイベントのビリケンさんのところへ
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写真撮影

再度眺めをながめる。
あべのハルカスの方角
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4階展望台へ階段で移動

4階でも景色を眺め、エレベーターで下に降りる。

お土産屋さんで、自分用にビリケンさんのTシャツを購入

展望台から見下ろした景色で目をひいたのは、天王寺動物園
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でなくて、その手前に見えたラブホテルの広告が笑えた!
看板見たで、特典があるそうで・・・・・・。
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道路から通天閣の下側を見上げると見える絵が綺麗
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通天閣のオフィシャルサイトは=>こちら
通天閣最頂上部特別展望台 天望台パラダイス(こちら
5階 展望台(87.5m)黄金のビリケン神殿
展望台から3階まで約5分400階段ほどを降りる事となる。
戻る事ができない為、体力に自信がある健康な方のみご利用下さいとの注意書きあり
4階 展望台(84.0m)
3階 ルナパークジオラマ  カフェ・ド・ルナパーク(こちら
2階 ”キン肉マン”アーカイブコーナー  チャンチャン町(売店)(こちら
1階 通天閣 入口
B1階 わくわくランド・STUDIO210・展望券売場(こちら
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外に出て、ホテルに向かって徒歩で帰る。

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派手な居酒屋はまるでお祭り状態

歩いてジャンジャン横町を通って(19時半前)、ホテルの方へ
横丁は日が暮れてますます賑やかになっていた。
射的屋さんが非日常を思わせ、串かつ屋さんでは席待ちの長い列
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ジャンジャン横町を抜けて、広い道路をホテルのある側に渡り、ひたすら歩く。

あべのハルカス前を通過(19:40)
光るあべのべあ!
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ホテル横の飲食店が多く入るビルで居酒屋に(20時前)
酒蔵 男はつらい(ぐるなび=>こちら
〒545-0052  大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-61 新宿ごちそうビル7F
050-5786-1035
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食べて、ビールを飲んで、リラックス
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夜に居酒屋に子供を連れてきている横の家族に?違和感
道頓堀地ビール ジョッキ 480円
大阪ミックスジュースDEカクテル 480円
柔らか 牛カルビ カットステーキ 880円
とんぺい焼き(豚&もやし) 480円
刺身五点盛り合わせ 480円
ぷりぷり海老の美味しいチャーハン 480円

コンビニに寄り、ホテルに戻る。
〆はビールを部屋で(21:15)
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大阪城、住吉大社、通天閣と端折った細かいところもあるものの、色々と見る事ができて充実の1日だった。
大阪城の広さには難渋、付近の駅の場所をあらかじめ確認しておくべきだったと反省
住吉大社で時間に追われたのは、少し残念だったが、やはり行きたい場所だったので、この日に行く事で翌日が楽になった。
しかし、通天閣付近はもう少しさびれた感じかと想像していたが、意外と賑やかで拍子抜け
展望台の景色自体は、前日にあべのハルカスを体験していただけあって、新鮮さはなし

でも大阪滞在中は、通天閣で見たポスター(下記)の様な、ヒョウ柄のおばちゃんは見なかったかな?
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posted by さとう at 12:19 | 旅行・名所訪問・ツアー体験記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シンガポール石川ビジネス商談会 SINGAPORE-ISHIKAWA BUSINESS EXHIBITION 2016年7月 〜Grand Hyatt Singapore(グランド・ハイアット・シンガポール)〜

7月15日金曜日にシンガポール石川ビジネス商談会 SINGAPORE-ISHIKAWA BUSINESS EXHIBITIONGrand Hyatt Singapore(グランド・ハイアット・シンガポール)2階のTHE GALLERY(ギャラリー)開催された。
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14:30からの来場者受付にぞくぞくと人が集まってくる。

入口には、地元特産の九谷焼、金沢箔、加賀友禅、輪島塗、山中漆器の英語での説明

15:00からは石川県谷本知事の来場者への挨拶(知事室のウェブサイトは=>こちら
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知事の挨拶の後は、掛け声賑やかに行われた”餅つき”のデモンストレーション
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できた餅はその場で来場者に配られた。
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15:30からは各デスクで商談会が開始
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参加企業一覧 26社
俺たちの能登 oretachinoNOTO(BrandHokuriku CO.,LTD) =>こちら
加賀麩 不室屋 KAGAFU FUMURO-YA Co.,Ltd. =>こちら
鹿野酒造株式会社 KANO BREWERY CO.,LTD =>こちら
菜夢来(サムライ) 治郎堂 幸露柿 SAMURAI,LLC =>こちら

天狗舞酒造 SAKE TENGUMAI SHATA SHUZO CO.,LTD. =>こちら
きんつば中田屋 NAKATAYA CO.,LTD =>こちら
日本発酵化成 NIHONHAKKOUKASEI CO.,LTD =>こちら
バイオセラピー開発研究センター BIOTHERAPY DEVELOPMENT RESEARCH CENTER CO.,LTD. =>こちら

ヤマト醤油味噌 YAMATO SOYSAUCE & MISO CO.,LTD. =>こちら
六星 ROKUSEI Co.Ltd =>こちら
柚餅子総本家 中浦屋 Yubeshi Souhonke Nakauraya Co.,Ltd. =>こちら
わくわく手作りファーム川北 WAKU WAKU FARM BREWERY  =>こちら

箔一 Hakuchi Co.,Ltd. =>こちら
ウチキ UCHIKI CO.,LTD =>こちら
岡田や漆器 OKADAYA LACQUERWARE CO.,LTD =>こちら
カノー Kano Corporation =>こちら

正和 SHOWA INC. =>こちら
たつみや TATSUMIYA CO.,LTD. =>こちら
守田漆器 MORITA SHIKKI CO.LTD. =>こちら
九谷 なごみ Inoseihou.Co.,Ltd. =>こちら

シーブレーン C-Brain Co.,Ltd. =>こちら
藤八屋 TOHACHIYA =>こちら
丸与商事 Maruyo shoji.Co.,Ltd =>こちら
田中実業 Tanakajitsugyo Co.,Ltd. =>こちら

加賀屋 KAHGAYA HOTELS,CO. =>こちら
ゆのくに天祥 Japanese-style hotel Yunokuni tensyo =>こちら


主催者は、今年2016年(平成28年)3月に支店開設・営業を開始した北國銀行(シンガポールで地方銀行として初)
・支店開設については=>こちら
・当ビジネス商談会については=>こちら

ishikawa-singapore-japanese.jpg





GrandHyattEntrance.JPG


Grand Hyatt Singapore(グランド・ハイアット・シンガポール)
10 Scotts Road Singapore 228211
電話:+65 6738 1234


posted by さとう at 10:47 | ホテル・イベント訪問記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Craft Beer Bar Takumi(クラフト・ビール・たくみ) 2016年6月 〜Mandarin Orchard Singapore(マンダリン・オーチャード・シンガポール)〜

2016年6月にオープンしたCraft Beer Bar Takumi(クラフト・ビール・たくみ)があるのは、Mandarin Orchard Singapore(マンダリン・オーチャード・シンガポール)の5階ロビー、レセプションカウンターの反対側のBar On 5(バー・オン5)の入口
takumi(3).JPG
クラフトビールながらの独特の味のビールを味わえるのは嬉しい。
takumi(1).JPGtakumi(2).JPG
ビールに無料でついてくるピーナッツをつまみながらビールを2杯飲んだ。
料理はBar On 5(バー・オン5)のメニューからオーダーできる(この日はオーダーしなかったので要確認)。

シンガポールでもクラフトビールも飲めるお店が増えてきたが、ホテルの中でも本格的に味わえる様になったのは嬉しい。
当店はこの国のクラフトビール専門店の先駆け、JibiruBar(地ビールバー)による経営


Craft Beer Bar Takumi(クラフト・ビール・たくみ)
333 Orchard Rd 5th Floor Lobby Mandarin Orchard Hotel Singapore 238867

Mandarin Orchard Singapore(マンダリン・オーチャード・シンガポール)
333 Orchard Road Singapore 238867

ホテル内
チキンライス有名店Chatter Box(チャター・ボックス)については=>こちら
四川飯店 Shisen Hantenについては=>こちら








posted by さとう at 09:07 | ホテル・イベント訪問記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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