4日目 5月3日(火曜日) 大阪観光 大阪城・住吉大社・通天閣 朝食はホテル横にあったコンビニで買ったパン等を食べて済ます(7時過ぎ)。
日本のコンビニのパンが美味しくて、どう考えても食べ過ぎた。
この日の観光はまずは大阪城
今回の大阪訪問のメインイベントのひとつは大阪城観光、どれくらい時間がかかるかわからなかった為、中日のこの日にスケジュールを持ってきた。
JR天王寺駅から電車に乗り(8時半過ぎ)、大阪城公園駅に向かう。
9時前に、大阪公園駅到着
司馬遼太郎の文章が駅舎内壁の上部に
司馬遼太郎と大阪については=>
こちら のPDFがコンパクトにまとめてあり、お勧め
電車を降りて、地図で位置を確認
お城の方へ歩いて行く途中、リバークルーズ(大阪水上バス)の港に立ち寄る。
ちょうどカウンターが開いたところで、取り敢えずスケジュールだけを見ておいた。
大阪城ホール前を通過し、それから約10分ほど歩き 青屋門(あおやもん)
大阪城二の丸の北に位置する出入口、青屋門はその桝形(ますがた)の内側に建つ。
創建は徳川幕府による大阪城再築工事が開始された元和6年(1620年)頃と考えられる。
明治維新の大火で被災し、その後陸軍によって改築、昭和20年(1945年)の空襲で大破
昭和44年(1969年)に大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門
上部に櫓(やぐら)を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代は上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。
桝形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画の事で、青屋口の桝形は二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出桝形(でますがた)だった。
さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。
この橋は押し出し引き入れの自在のいわゆる算盤橋(そろばんばし)で、非常時以外は引き入れたままになっていた。
「青屋」の名については、戦国時代この地にあった大阪(石山)本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。
〜門にあるパネル(歴史街道)より〜
門を通り過ぎると大阪城の天守閣が見えて来た。
左に曲がって、さらに10分ほど歩いて、石山本願寺の碑
石山本願寺と大阪
明応5年(1496年)、本願寺第8代宗主蓮如は摂津国東成郡生玉庄内の大阪に坊舎を築いた。
「大阪」という地名が歴史上初めてあらわれるのは、明応7年(1948年)11月21日付の蓮如の「御文(御文書)」とされている。
この坊舎を中心にして周囲に土居と堀を巡らせた「六町の構」と言われた寺内町が形成された。
天文元年(1532年)に山科本願寺が炎上すると、本願寺はこの地に移され、本願寺教団の中心となった。
石山本願寺の寺内町では、御御影堂・阿弥陀堂を中心に、六町二千軒におよぶ町屋が立ち並び、多くの職人や商人が生活
当時の堺とならぶ豊かな都市生活がくりひろげられていた。
やがて織田信長と対立し、元亀元年(1570年)から11年間におよぶ石山合戦の後、大阪から鷺森、貝塚、天満を経て、天正19年(1591年)に京都へ移転
秀吉は石山本願寺と寺内町の跡に大阪城を建築
石山本願寺の遺構はいまだ確認されていないが、大阪城公園の辺りがその遺構と推定されている。
〜大阪市教育委員会のパネルより〜
本願寺について興味ある方は、西本願寺(本願寺派)は=>
こちら 東本願寺(真宗大谷派)は=>
こちら これらをご参考に
石山合戦で織田信長と10年以上にわたり戦った11世の顕如の長男の教如が本願寺東隣の土地を徳川家康から与えられ東本願寺を開いた(1602年)。浄土真宗はここで、元来の本願寺を継いだ弟の准如と対立
豊國神社(ほうこくじんじゃ)に到着(9時半過ぎ)
裏から入ったが、まずは本殿にお参り
御朱印をもらう。
豊臣秀吉像
出世街道を駆け上がり、老いて色々と間違いをしてしまった豊臣秀吉はあまりにも人間的な為、今も人から好かれるのかも知れないと、この旅行記を書きながら思う。
神社を出て、少し歩き、やっとお城近くにたどり着く。
まずはアイスクリームを食べて、休息を取った(9:50)。
約10分の休息の後、再び天守閣を目指す。
桜門をくぐり抜けたのは10時過ぎ
桜門(重要文化財)
本丸の正門。徳川幕府による大阪城再築工事が行われていた寛永3年(1626年)に創建も、慶応4年(明治元年1868年)の明治維新の大火で焼失。
明治20年(1887年)に陸軍が再建したものが現在のもの。
左右の堀も桜門再建に合わせて新築されたが戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969年)に復元。
桜門の名称は豊臣秀吉が築いた大阪城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられる。
ただし、豊臣時代の大阪城は、徳川幕府再建の今の大阪城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方角も違っていた。
なお、門の両脇に見える巨石は龍虎石(りゅうこいし)と呼ばれ、江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿、左に虎の姿がそれぞれ現れると言われた。
〜門にあるパネル(歴史街道)より〜
門の裏手には、銀明水井戸の井筒(ぎんめいすいいどのいづつ)
桜門桝形の巨石
桜門の内側には、本丸の正面入口を守る為、石垣で四角く囲まれた「桝形」とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓(たもんやぐら)が建てられた。
この桝形は、徳川幕府による大阪城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624年)、備前岡山藩主池田忠雄の担当によって築かれ、石材は備前産の花崗岩が用いられている。
正面の石は蛸石とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メーター)、重量は約108トンと推定。
向かって左手の巨石は振袖石(ふりそでいし もしくは、袖石)とよばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メーター)で城内第3位。
なお、上部の多聞櫓は、明治維新の大火で焼失。
大阪城天守閣までもう少し!
旧大阪市立博物館
当建物は昭和天皇の即位を記念して、昭和6年に市民の寄付により当時のお金にして150万円が集められ、大阪城天守閣の再建、大阪城公園の新設と合わせて第4師団司令部として建築された。
外観をヨーロッパ中世の古城に似せた堂々とした建築で、壁面上部の装飾や正面および四隅の隅塔などにその特徴がある、
戦後は大阪市警視庁として、その後大阪府警本部として使用。内部を改築し昭和35年から平成13年まで大阪市博物館。
〜大阪市経済戦略局の説明による〜
天守閣に登る入口は長蛇の列
列の最後尾に並ぶ。
楼閣も公開中で、双方に行く人は列に並ばずにチケット購入できるという話だったが、時間的な点で双方行くか決められずに、まずは天守閣のみ
15分〜20分ほど待って、チケット売り場へ(10時半前)
料金所を入り、天守閣の建物に行く前
金明水井戸屋形(きんめいすいいどやかた) 重要文化財
大阪城の小天守台(しょうてんしゅだい)にある井戸を金明水といい、それを覆う面積11.55平方メーター、高さ5.2メーターの建物を金明水井戸屋形という。
井戸は33メーター、井筒は1個の石をくりぬいたもので、外部の水長師は4枚の大石を組み合わせて敷き詰めている。
この井戸は徳川幕府による大阪城再築工事にともない寛永元年(1624年)に新たに掘られたものであること、さらに井戸屋形は同3年(1626年)に創建された当時のもの。
なお、江戸時代までこの井戸は黄金水(おうごんすい)と呼ばれ、本来の金明水(金水)は天守の東側、現在の配水池のあたりにあった。
まずは天守閣を上まで登り、そこから降りて行く事に
エレベーターで最上階へ
天守閣到着(10:40前)
金ぴかのしゃちほこ
歩いてきた広場の模様
大阪城の天守閣の歴史
秀吉時代 天正13年(1585年)から慶弔20年(1615年) 31年
徳川時代 寛永3年(1626年)から寛文5年(1665年) 40年
現代の天守閣は、昭和6年(1931年)から
登録有形文化財 大阪城天守閣
現在の天守閣は昭和6年(1931年)、大阪市民多数の寄付金を元手とし、「大坂夏の陣図屏風」に描かれた豊臣時代の天守を参考に建築された。
鉄筋鉄骨コンクリート造りで、本丸から最上階の鯱までの高さは約54.8メートル。
古典建築を近代的な技術によって再現した、わが国の復興天守第1号である。
初代の天守は、豊臣秀吉が大阪築城を開始して3年目とある天正13年(1885)に完成したが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で城もろとも焼失。
二代目の天守は徳川幕府による再築工事の最中、寛永3年(1626)に現在の場所に築かれたが、寛文5年(1665)に落雷で焼失した。
以来大阪城は天守のない城郭として幕末に至る。
三代目となる現存の天守は、復興時から博物館施設として利用され、第2次大戦の空襲でも焼失をまぬがれた。
平成9年(1997)には復興以降初めての改修工事が完了し、同年、歴史的景観に寄与する近代建築物として国の登録有形文化財となった。
なお戦後の学術調査によって、豊臣時代の天守は現在地よりも東にあったことが判明しており、高さは約40メートル。配水池の地下付近から天守台石垣の一部が発見されている。
〜歴史街道より〜
鉄筋コンクリートの大阪城はエレベーターがあるのが、少し興ざめながらも、しょうがないかと思いつつ
天守閣に10分ほど滞在し、階段を下に降りる。
ちょうど徳川家康に関し、展示
神君家康ー「東照宮縁起絵巻」でたどる生涯
平成28年3月19日(土)〜5月15日(日)
大阪城天守閣3・4階展示室
真田丸のポスターで、大河ドラマでの盛り上がりを感じた。
豊臣大阪城が落ちる黒田官兵衛が書かせたという屏風(レプリカ)の説明の展示に、お城が落ちるとはと思いをはせる。
真田幸村の闘う姿をお寺の鳥居前に確認(翌日行く事に)
約1時間ほど、展示物を見学してまわる。
もう少し時間をかけて見たかった気持ちもあったが、人が多いのと、次に行く場所なども考慮に入れて、移動をした。
8階 展望台 ミュージアムショップ
7階 展示室(豊臣秀吉の生涯)
6階 回廊
5階 展示室(大坂夏の陣屏風の世界)
4階 文化財展示室(豊臣秀吉とその時代)
3階 文化財展示室(豊臣秀吉とその時代) 黄金の茶室 図録販売書
2階 展示室(お城の情報コーナー) 事務室 学芸員室 会議室 🚻
1階 エントランスホール ミュージアムショップ シアタールーム インフォメーション
天守閣を出て、列に並んでいる時にはゆっくり見られなかった金蔵の建物を眺める(12:20前)。
金蔵(きんぞう) 重要文化財
江戸時代、幕府の金貨、銀貨を保管した建物で、幕府直営の金庫としての役割を果たした。
「かねぐら」「かなぐら」とも読む。
宝歴元年(1751年)、この場所から南に延びていた長屋状の建物を切断・改造して築造され、以来、北西側に以前からあった金蔵を「元御金蔵(もとごきんぞう)」、
この金蔵を「新御金蔵(しんごきんぞう)」と呼んだ。
高さは約5.8メーター、面積は93.11平方メーターで内部は大小2室からなり、手前の大きな部屋には通常の出納用、奥の小さな部屋には非常用の金銀を置いた。
構造は防災と防犯に特に工夫がこらされ、床下は全て石敷き、入口は二重の土戸と鉄格子戸の三重構造、小窓は土戸と鉄格子、床下の通気口にも鉄格子がはめられている。
なお元御金蔵は、明治25年(1892年)の配水池建築にともなって今の金蔵の東隣に移築され、さらに昭和4年(1929年)陸軍によって高槻工兵隊の敷地内に解体移築、のちに消失。
〜パネル(歴史街道)より〜
極楽橋の方へ淀君・秀頼の終焉の地を探して少し迷った。
石垣近くの祠(12時半)
もう少し降りたところが終焉の地だと知り、山里丸へ
たどり着いて、碑で手を合わせた(12:40過ぎ)。
人生とはわからないものだと思えた。
山里丸
天守から一段下ったこのあたり一帯を山里丸と呼ぶ。
豊臣時代には、山里の風情を保つ松林や、桜、藤などの木々が茂り、いくつもの茶室が建っていた。
豊臣秀吉や、その家族が茶会や花見を楽しむくつろぎの場所であった。
大坂夏の陣(1615年)で落城の際、淀殿、秀頼母子が自刃したのも山里丸と伝えられている。
徳川時代寛永元年(1924年)の再築後は構造も建物もすっかり変わり、石垣を取り囲む櫓のほか大阪城を守衛した山里加番(城役人)の建物が立ちならんでいた。
〜たてられてあったパネルより〜
極楽橋を渡る。
極楽橋
山里丸と二の丸とを結ぶ橋である。
豊臣秀吉が天正11年(1583)に築造を開始した大阪城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にもかけ直された。
江戸時代には幅約8メートル(4間)の木造で、慶応4年(明治元年、1868)に起こった明治維新の大火によって焼け落ちたが、97年後となる昭和40年(1965)に再架橋された。
現在の極楽橋は長さ約54メートル、幅約5.4メートルで、橋脚(きょうきゃく)・主桁(しゅげた)を鉄筋コンクリート造としつつも、上部は歴史的景観に配慮し伝統的な擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)としている。
「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさす事から、戦国時代この地にあった浄土真宗本願寺派の本山、大阪(石山)本願寺以来の名称ではないかと考えられている。
〜歴史街道より〜
天守閣で見た屏風絵には、この橋を渡って逃げ落ちる人たちの姿が生々しく表現されていた。
橋を渡り、左手の方へ行き、
大阪城御座船(=>
こちら)という堀を舟で行くというものの乗り場を通り過ぎた(12:50)。
こま犬
この一対の「こま犬」は中国・明(みん)の時代の文化遺産で、それぞれ高さ約3メートル、重さ約2.9トンある。
日中戦争の最中に日本へ運ばれ、当時陸軍第四師団司令部のあった大阪城内に置かれた。
戦後も長らく山里口出桝形(やまざとぐちでますがた)の東付近に置かれていたが、昭和59年(1984)、中国政府に寄り改めて大阪市に寄贈される事になり、現在の場所に移された。
以来この「こま犬」は、両国人民の友好関係を促進し、友誼を深める象徴となっている。
わきに建立された記念碑には、変わらぬ日中友好への願いをあらわした「中日友好 萬古長青」の文字が刻まれており、これは当時の宋之光中華人民共和国駐日本国特命全権大使の筆になる。
〜歴史街道より〜
京橋口
大阪城の西北の出入口。
北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられている事から、「京橋口」もしくは「京口」と呼ばれた。戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、桝形には大手口と同様に多聞櫓もあって、大阪の名所となっていたが、昭和20年(1945)の空襲によって全焼した。
〜歴史街道より〜
京橋口桝形の巨石
京橋口桝形の内、京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が畳約33畳敷(54.17平方メートル)にもなる城内第2の巨石「肥後石」である。
築城の名手加藤肥後守清正が運んできたと伝えられてきたが、実際は徳川幕府による大阪城再築時に、この区域の石垣築城を担当した肥前岡山藩主池田忠雄によって運ばれた。
肥後石の左手が京橋口二番目石で、表面積が畳22畳敷(36.00平方メートル)の、城内第7位の巨石である。
〜歴史街道より〜
筋鉄門跡(すじがねもんあと)を通過(13:00)
筋鉄門跡(すじがねもんあと)
元和6年(1620)に開始された徳川幕府による大阪城再建工事では、同年の第1期工事により二の丸の北外側に北外曲輪(きたのそとくるわ)(三の丸)が築かれた。
筋鉄門はその西の入口で、門扉は筋状の鉄板で補強されていた。
ここは鴫野(しぎの)方面への通路にあたる事から一般の通行が許され、特に鴫野の弁財天の縁日には多数の市民がここを通った。
門は明治維新後も残り、北外曲輪跡に設置された軍需工場(大阪砲兵工廠)の正門とされたが、現在は左右の石組だけが残る。
〜歴史街道より〜
道を迷った挙句、スマートフォンで地図を確認しつつ、駅を探す。
ホテルで教えてもらったお好み焼き屋さんを目指してホテルに戻るべく、地下鉄天満橋駅へ(13:10)
13:30に天王寺に到着
迷いつつ、やっとのことで見つけたお好み焼き屋さん”
京ちゃばな”
しかし、人気店の様で、予約でいっぱいだと言われ、断念(13:40)
〒545-0053 大阪市阿倍野区松崎町2-3-50 レガーレ阿倍野1F
近くの人が群がるタコ焼き屋さんで、タコ焼きを立ち食い(13:50)
〒545-0052 大阪市阿倍野区阿倍野筋1-2-34
電話:06-6622-5307
営業時間平日11:00〜23:00/土11:00〜23:00/日・祝11:00〜22:30
定休日第3木曜日
移動する前に少し休もうと、あべのハルカスに向かう。
あべのハルカス内6階のカフェでひと休み(14:10)
大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-43 あべのハルカス近鉄本店 タワー館 6F
電話:06-4703-3345
路面電車、
阪堺電車で住吉大社を目指す(15:15過ぎ)。
路面電車を降りると、そこは住吉大社
到着し(15:35過ぎ)、反橋(太鼓橋)を渡り(15:40過ぎ)、中へ入る。
慶長年間に淀君が奉納したものであるといわれており、昔は、この橋の近くまで波が打ち寄せられていたそう
川端康成の小説『反橋』で「上るよりもおりる方がこはいものです」と書かれてある。
夜は21時までライトアップ、関西夜景100選
水手舎(てみずしゃ)
ウサギの口から水が注がれているのは、神功皇后がお祭りされた日が卯歳(うのとし)、卯月(うづき)、卯日(うのひ)であることから、ウサギと深い結びつきを象徴したもの
角鳥居(かくとりい)
四角柱の鳥居であるため、角鳥居 (かくとりい) とも呼ばれている。
このような四角柱の柱は古い様式で大変珍しく、各本殿と拝殿の間に建っている木造朱塗りの鳥居が原形
題額は陶製で、有栖川宮幟仁親王の筆
閉まるまで時間がなさそうなので、まずは入口の御朱印所へ
色々と御朱印所があるようだったが、ここだけにする。
その後、本殿を目指す。
現存の本殿は全て1810年=文化7年に建築
第一本宮から第四本宮にL時に並ぶ4棟の本殿は「住吉造(すみよしづくり)」と呼ばれ、神社建築史上最古の様式の一つ
いずれも国宝建造物に指定されている(昭和28年11月14日 指定)。
ご祭神
第一本宮:底筒男命 そこつつのおのみこと
第二本宮:中筒男命 なかつつのおのみこと
第三本宮:表筒男命 うわつつのおのみこと
第四本宮:神功皇后 じんぐうこうごう (息長足姫命 おきながたらしひめのみこと)
本殿ではちょうど結婚式が執り行われていた様(16時前)
神前結婚式もいいものだ、と見ていて思う。
本殿の奥は左側は閉まる前で、入ろうとすると、スタッフの人の「時間内に戻ってこれないと、出られない」との言い方にムッとする。
戻って来れればいいんだろう?と言い、中に入る。
中の方をさらりと見て、本殿の右奥のパワースポットへ
ぜひともお参りしたいところ
良縁 えんむすび 夫婦円満
授与所 お守りなどの売り場窓口 9:00〜16:30
巫女さんが頭にかぶっている飾りが珍しい。
住吉退社は巫女とは呼ばずに「神楽女」 (かぐらめ)と呼ぶ。
住吉大社は伊勢の神宮や春日大社など古社とならび、伝統ある神楽を継承、その神楽舞に奉仕するのが神楽女
神楽を舞うことで神霊を神楽女に御招きする意義があるので、頭上には鏡を中心に、神木である「松」が掲げられ、神使の「白鷺」が飾りつけられている。
まずは地図で大まかな位置関係を確認したい。
小雨の中で、太鼓橋の赤色が映える。
石舞台などは見ずに去った。
名所などは=>
こちら であらかじめチェックしておく事をお勧めする。
路面電車駅に向かう途上、橋のところから雨が降り出した。
駅前の軒先で雨宿りして、電車が来るのを待つ。
取り敢えず、最初に到着した電車に乗車(16:25)、通天閣を目指す。
往路と同じ路線では通天閣方面にはいかない事を知る(16:44)。
南海電気鉄道株式会社の100%子会社の阪堺電気軌道株式会社の会社概要(その歴史など)は=>
こちら
歩いて通天閣に行く事に
天王寺動物園前の公園では何やら音楽イベントが行われている様だった。
歩いている途中、天王寺動物園過ぎたところで、土砂降りになってしばらく雨宿り
小降りになったところで、急いで移動
道路を右手に曲がり、直進
ジャンジャン横丁に入る。
狭いアーケードの中にお店がひしめき合う。
将棋や囲碁をやる人人人・・・・・・(17:09)。
アーケードを抜けて、まっすぐに歩いて行くと、通天閣が見えて来た。
通天閣の地下でまずは並び、チケット購入
エレベーターに乗り2階へ行く。
そこを降りるとぐるりと1周の長い列、そこで40分の待ち時間
順路の向こうに見えるのは、展望台へのエレベーター
最初の写真撮影(17:40)
「綺麗に撮れタワ〜」と撮影ごとにポーズをとる元気なお姉さん
1956年(昭和31年)の二代目通天閣の誕生に関わる資料(?)が何となく置かれていた。
5階のビリケンさんでの写真撮影販売所(17:50前)
2階をぐるりとまわって、やっとエレベーター乗り場にたどり着く。
エレベーターに乗って5階の展望台へ
展望台に到着、眺めを見下ろす。
そして、メインイベントのビリケンさんのところへ
写真撮影
再度眺めをながめる。
あべのハルカスの方角
4階展望台へ階段で移動
4階でも景色を眺め、エレベーターで下に降りる。
お土産屋さんで、自分用にビリケンさんのTシャツを購入
展望台から見下ろした景色で目をひいたのは、天王寺動物園
でなくて、その手前に見えたラブホテルの広告が笑えた!
看板見たで、特典があるそうで・・・・・・。
道路から通天閣の下側を見上げると見える絵が綺麗
通天閣最頂上部特別展望台 天望台パラダイス(
こちら)
5階 展望台(87.5m)黄金のビリケン神殿
展望台から3階まで約5分400階段ほどを降りる事となる。
戻る事ができない為、体力に自信がある健康な方のみご利用下さいとの注意書きあり
4階 展望台(84.0m)
3階 ルナパークジオラマ カフェ・ド・ルナパーク(
こちら)
2階 ”キン肉マン”アーカイブコーナー チャンチャン町(売店)(
こちら)
1階 通天閣 入口
B1階 わくわくランド・STUDIO210・展望券売場(
こちら)
外に出て、ホテルに向かって徒歩で帰る。
派手な居酒屋はまるでお祭り状態
歩いてジャンジャン横町を通って(19時半前)、ホテルの方へ
横丁は日が暮れてますます賑やかになっていた。
射的屋さんが非日常を思わせ、串かつ屋さんでは席待ちの長い列
ジャンジャン横町を抜けて、広い道路をホテルのある側に渡り、ひたすら歩く。
あべのハルカス前を通過(19:40)
光るあべのべあ!
ホテル横の飲食店が多く入るビルで居酒屋に(20時前)
〒545-0052 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-61 新宿ごちそうビル7F
050-5786-1035
食べて、ビールを飲んで、リラックス
夜に居酒屋に子供を連れてきている横の家族に?違和感
道頓堀地ビール ジョッキ 480円
大阪ミックスジュースDEカクテル 480円
柔らか 牛カルビ カットステーキ 880円
とんぺい焼き(豚&もやし) 480円
刺身五点盛り合わせ 480円
ぷりぷり海老の美味しいチャーハン 480円
コンビニに寄り、ホテルに戻る。
〆はビールを部屋で(21:15)
大阪城、住吉大社、通天閣と端折った細かいところもあるものの、色々と見る事ができて充実の1日だった。
大阪城の広さには難渋、付近の駅の場所をあらかじめ確認しておくべきだったと反省
住吉大社で時間に追われたのは、少し残念だったが、やはり行きたい場所だったので、この日に行く事で翌日が楽になった。
しかし、通天閣付近はもう少しさびれた感じかと想像していたが、意外と賑やかで拍子抜け
展望台の景色自体は、前日にあべのハルカスを体験していただけあって、新鮮さはなし
でも大阪滞在中は、通天閣で見たポスター(下記)の様な、ヒョウ柄のおばちゃんは見なかったかな?